投げ銭カルチャー×テクノロジーとの邂逅。令和時代、ファンは享受するだけの存在ではなくなった。
はじめまして。アジャイルメディア・ネットワーク、新卒の伊藤亜季です。食べることとITガジェットが好きで、大学時代は映像制作をしていました。
さて私が紹介するのは次の記事です。
最近、「お金を媒体として応援する取り組み」をよく見ます。
Youtubeでいうスパチャです。
こんなふうに、見ず知らずの誰かにお金を「投げる」ことが可能になる。投げ銭というシステム自体は昔からありましたが、これのデジタルとの親和性がすごくいい。
どこの場所で、顔も知らない相手に、(身バレ等の)リスクがなく、直接的に金銭の授受ができる。
応援していることを知られたくない人もいるだろうし、「匿名で応援できる」というメリットは強い。インターネットで知り合ったバーチャルな存在にもお金が投げられるわけですから。
そして時代の流れもあると思います。ものではなく、「人」「経験」に投資するという思考が強くなっていること。私の周りでも「持たない贅沢」が一つの価値観としてフラットに捉えられていて、金銭の対価に求めるものの種別が広くなっているなぁ、と思います。
例えばUberEats。私も一人暮らしを始めるまでは「高い!損!絶対買わない」という強い意志がありました。ですがポストに投函されていた700円引きのクーポン付きチラシに惹かれて購入すると…いまではその楽さにたまの贅沢で使ってしまいます。
生活に余裕があって、基本的に常時仕事をしている人なんかは恒常的に使う気持ちもわかるのです。便利さをお金で買うってことですからね。その行為は「お金に余裕がある人」だけがするものではなくて、すべての人にニュートラルなアイデアとして波及してきている。
もう一つの例としてはいわゆる課金、特にソーシャルゲームなどのカードガチャ課金です。これって存在しないもの、手に入れても意味がないものですよね、物質的には。だってゲームのガチャで手に入るのはイラストとそれに付随するボイスなど。でもそれだってYoutubeにまとめが上がるし、なにかしらのモーションだって全部どこかで閲覧ができます。それなのに、軽自動車一台買えるくらいには課金する人もザラにいますよね。
自分の「推しキャラにお金をかける」ということに価値がある。(このあたりは卒論で書いたので、いつか詳しく書きたいです)
こんなふうに、何にお金を使うか、お金の使い方の幅が大きく変化してきています。
その中でこの「投げ銭」というカルチャーがまた復興してきている。だって好きなコンテンツがあって、それを作り出す人たちの力になりたいって思ったときに、直接お金を投げるっていうのはすごく有効な手段ですよね。
そんなものは下品、金品を贈るのはどうなの、という考えはもちろんあると思います。
でも同じお金で必要のないグッズを何個も買ったり、使いみちが限られているなにかをプレゼントするより、そのほうがいい。
主観でいいものを見た、でもその対価が出せない。「振り込ませて下さい」というのが「こちらにどうぞ」というプラットフォームが広がる。
コンテンツの受け手側に対価を出すか/出さないかという選択すら投げられる時代になっていること。これは受け手側の発信力が増していることだと思うんです。
作られたコンテンツに「何を対価として差し出すか」「そもそも差し出さないのか」という伝え方が広がっていること。
消費者は消費するだけの存在ではない。
ファンは享受するだけの存在ではない。
このことをもう一度考え直必要があると思います。